ブログいろいろ見ていたら辿りつきました!私もブログはじめました!写メとかも載せてみましたょhttp://37514.net/pc/weblog/home/yuka/←見に来てください!
果てしなく楽しいこと
芝居に必要な事と言われて先ずあげるのが情熱だろう。
いわずもがな、
熱をもたぬやつは消えていく。
情熱もつものはあきらめず、努力をおしまない。
次に必要なのは運かな?と思う。
人や作品に出会う運。
面白いことにかち合う運。
ダメでも拾い上げられる運。
どんなに才能あふれてても運がなければ消える。
その逆もしかり。
そして才能だとおもう。やはり。
才能のない者はダメだ。
スポーツマンになりたかった子供の頃の僕
が、運動神経も腕力もなく何も出来ないに等しかった。
人より努力をしても成長期の僕らの時間では一粒の砂でしかない。
すぐ追い抜かれてしまう。
ああ、僕は何もできないんだって思った。
そして、ぷらぷら幼い人生を歩いていたら
芝居に出会った。
小学校5年生の頃の話。
学芸会。
その時、初めてひとに褒められた気がした。
そして今に至る。
才能は、みんな違う。
自分の中の可能性に気づいていない人だらけだと
この世をながめてつくづく思う。
例えば教育
例えば各劇団の演出
よくある「面白いこと」「正しいこと」をお手本にして
それを全員にあてはめようとしているんだろうね。
残念ながら、
一人として同じ人間はいない。
だから教育も演出も違う方法をとってあげないと。
才能を消すことにもなる。
それは受ける側も一緒で、
通信簿の5段階や
先生の「身体がかたい」とか「滑舌がわるい」とか「感情が弱い」とか
どこかの誰かが決めたことをまるで世界の共通概念として思ってしまうのだ。
ひとは寄り添って生きてる種族だから。
だけど知ってほしい
正義は自分自身の中にあるのだ
それは懐に潜ませた刀に等しい。
人をそして自分を傷つけることもあるから
気を付けて正義を振りかざしてほしい。
そして他人の正義に惑わされぬよう
傷つけられぬよう、気を付けて、自分の刀で身を守るのじゃ!!
さて、「果てしなく面白いこと」の話です。
みんながみんな違う価値観(正義)を持ち合わせている。
じゃあ、人と人はわかりあえないのか?
というとそんなことはないのは周知のはず。
わかりあえる。
その上、高めあえる。
情熱の炎で刀を熱し、お互いの刀で鍛え合うという事か
人と人が対立ではなく共存もしくは共闘を誓えば
お互いの正義は一つの正義へと昇華するのではないか?と思う。
いや、確信である。
「面白いこと」
それを作るのは難しいと考える
ただ、和やか、笑える、暖かい。
それは「面白い」かい?
NOとは言わないが、激しくYES!とも言えまい。
「面白い」作品をつくりたい時、
みんなが楽しい稽古場ととにかく厳しい稽古場
どちらが成功しそうだと思うか?
僕は後者です。
でも
果てしなく楽しい稽古場なら別です。
「楽しい」とは
後付けである。
と確信します。
「面白い」をお互い追求に追求に追求を重ねると
とにかく厳しくなります。
ええ、妥協はゆるせなくなりますから。
そりゃあケンカくらいするでしょう。
しかしながら「オモシロイモノ」を本当に追求しているお互いなら
それでも分かり合えるでしょう。
単に笑いに笑いに笑いあうのかもしれません。
それだって厳しい現場だと思います。
気も抜けず、手も抜けず、いや抜くなんて思いもよらず、
お互い、あいてに仕掛けあう。
楽しいですね。半端無く。でも半端無くつかれますね。
結果、「ものすごい現場がそこにはあった」という事実がのこります。
知っての通り、再現は出来ません。
しかし、「こんなことができるんだ」という道ができます。
だからなぞる事など必要ありません。
厳しく苦しくおかしい道のりの末、振り返ったとき
「面白かった!」
と思い至るのだと思います。
ジェットコースターに乗ってる最中、
「ココでこのカーブが来るから面白い!」
とか考えないでしょ?
後で「なんかカーブのとこがすごかった!(見て)ああ!あの辺!」
と感じるでしょ?
スポーツマンの人は特によく分かると思います。
すごくいい試合をした時。
やってる側も、見ている側も
手に汗握り、エキサイトしていたはずです。
それが「果てしなく面白いこと」につながると思います。
どうも分からない人は、気の合う仲間と記憶なくすくらい酒呑んだ時のことでも思い出してください。
それは目指せても、確立できない事なのかもしれません。
でも存在はするし、安定供給している集団もあるのだし、
僕らの持ち物にするのは不可能ではないはずですよね。
見ている側も、やっている側も
果てしなく面白い、果てしなく楽しい作品をつくってゆけるように。
いわずもがな、
熱をもたぬやつは消えていく。
情熱もつものはあきらめず、努力をおしまない。
次に必要なのは運かな?と思う。
人や作品に出会う運。
面白いことにかち合う運。
ダメでも拾い上げられる運。
どんなに才能あふれてても運がなければ消える。
その逆もしかり。
そして才能だとおもう。やはり。
才能のない者はダメだ。
スポーツマンになりたかった子供の頃の僕
が、運動神経も腕力もなく何も出来ないに等しかった。
人より努力をしても成長期の僕らの時間では一粒の砂でしかない。
すぐ追い抜かれてしまう。
ああ、僕は何もできないんだって思った。
そして、ぷらぷら幼い人生を歩いていたら
芝居に出会った。
小学校5年生の頃の話。
学芸会。
その時、初めてひとに褒められた気がした。
そして今に至る。
才能は、みんな違う。
自分の中の可能性に気づいていない人だらけだと
この世をながめてつくづく思う。
例えば教育
例えば各劇団の演出
よくある「面白いこと」「正しいこと」をお手本にして
それを全員にあてはめようとしているんだろうね。
残念ながら、
一人として同じ人間はいない。
だから教育も演出も違う方法をとってあげないと。
才能を消すことにもなる。
それは受ける側も一緒で、
通信簿の5段階や
先生の「身体がかたい」とか「滑舌がわるい」とか「感情が弱い」とか
どこかの誰かが決めたことをまるで世界の共通概念として思ってしまうのだ。
ひとは寄り添って生きてる種族だから。
だけど知ってほしい
正義は自分自身の中にあるのだ
それは懐に潜ませた刀に等しい。
人をそして自分を傷つけることもあるから
気を付けて正義を振りかざしてほしい。
そして他人の正義に惑わされぬよう
傷つけられぬよう、気を付けて、自分の刀で身を守るのじゃ!!
さて、「果てしなく面白いこと」の話です。
みんながみんな違う価値観(正義)を持ち合わせている。
じゃあ、人と人はわかりあえないのか?
というとそんなことはないのは周知のはず。
わかりあえる。
その上、高めあえる。
情熱の炎で刀を熱し、お互いの刀で鍛え合うという事か
人と人が対立ではなく共存もしくは共闘を誓えば
お互いの正義は一つの正義へと昇華するのではないか?と思う。
いや、確信である。
「面白いこと」
それを作るのは難しいと考える
ただ、和やか、笑える、暖かい。
それは「面白い」かい?
NOとは言わないが、激しくYES!とも言えまい。
「面白い」作品をつくりたい時、
みんなが楽しい稽古場ととにかく厳しい稽古場
どちらが成功しそうだと思うか?
僕は後者です。
でも
果てしなく楽しい稽古場なら別です。
「楽しい」とは
後付けである。
と確信します。
「面白い」をお互い追求に追求に追求を重ねると
とにかく厳しくなります。
ええ、妥協はゆるせなくなりますから。
そりゃあケンカくらいするでしょう。
しかしながら「オモシロイモノ」を本当に追求しているお互いなら
それでも分かり合えるでしょう。
単に笑いに笑いに笑いあうのかもしれません。
それだって厳しい現場だと思います。
気も抜けず、手も抜けず、いや抜くなんて思いもよらず、
お互い、あいてに仕掛けあう。
楽しいですね。半端無く。でも半端無くつかれますね。
結果、「ものすごい現場がそこにはあった」という事実がのこります。
知っての通り、再現は出来ません。
しかし、「こんなことができるんだ」という道ができます。
だからなぞる事など必要ありません。
厳しく苦しくおかしい道のりの末、振り返ったとき
「面白かった!」
と思い至るのだと思います。
ジェットコースターに乗ってる最中、
「ココでこのカーブが来るから面白い!」
とか考えないでしょ?
後で「なんかカーブのとこがすごかった!(見て)ああ!あの辺!」
と感じるでしょ?
スポーツマンの人は特によく分かると思います。
すごくいい試合をした時。
やってる側も、見ている側も
手に汗握り、エキサイトしていたはずです。
それが「果てしなく面白いこと」につながると思います。
どうも分からない人は、気の合う仲間と記憶なくすくらい酒呑んだ時のことでも思い出してください。
それは目指せても、確立できない事なのかもしれません。
でも存在はするし、安定供給している集団もあるのだし、
僕らの持ち物にするのは不可能ではないはずですよね。
見ている側も、やっている側も
果てしなく面白い、果てしなく楽しい作品をつくってゆけるように。
COMMENT FORM
優香さんありがとうございます~。
拝見させていただきました~。まだこれから楽しくなっていきそうですね。
僕もまだまだBLOG初心者なのでお互い楽しい部屋を作っていきましょう!